デザインとアートと私
長いです。
前回のポストから、ゆるっと繋がります。
そもそも僕が今のこの世界にいる事が必然、もしくは導かれたものだったのかと思う事がよくあります。
◯小学校の頃、クラスには、
男子←→女子、運動←→勉学、面白い←→真面目など、休み時間になると、このような集まりで分かれて遊んだりしていて、僕はどこにいても、輪に入れている実感があまりありませんでした。いつそこから外に追い出されてしまうかわからない不安と、外にいる人たちも一緒に遊びたい、そんな分け隔てのない関係を取ろうと、僕自身の居場所を探していました。
誰からも嫌われたくない、からスタートしています。
チョイカミチョイカミは、遊びに対してもそうで。
昔から、アニメ、ゲーム、漫画、オモチャ、どれも深く入り込めず、周囲の詳しい人たちが羨ましかったけど、情熱もわかず、すぐに飽きてしまったり。
僕が、すぐ熱が冷めてしまう、いろんな人との壁を打ち破れる可能性を感じたのが「絵」と「漫画」でした。
あるクラスメイトが描くドラゴンボールの絵がすごくよく描けていて、クラスのグループを横断して、クラスの大半の男子が惹きつけられました。彼の絵の前では、どんな壁も取り払われていたんです。
思えば、この体験が今に大きく生きているのかもしれないなと最近思います。
◯自分たちが「いい!」と思う事も、万人には受け入れられない。そこにある壁を、当たり前と感じ、あるいは、気づかず過ごす事に慣れてしまう。これはどんな「人間関係」にも、「業界」にも、「都市」にも当てはまります。
今のこの街は最高だ!
イベント大成功!
おれはあの人とは合わない。
あのコミュニティはちょっと苦手。
そんな両極の意見も、輪に入れば多様性が失われ、少数派や、外からの意見には耳を傾けず、特定のファンの中で居心地の良さを感じ、又その反面、新しいファン層の獲得に行き詰まっている。これは本当によくある事です。
◯近頃、ギャラリー、バー、本屋、コワーキングスペースを運営しているので、絵やお酒や本、デザインの仕事が好きなんですね。とよく言われます。でも、なんだかしっくりこなかった。
で、僕自身、じゃあなぜやっているのかな?
とか、何に興味があるのかな?とか、それぞれの一貫性はあるのか、など考えていて、最近気づいた事。
僕は人が好きだし、人との壁が取り払われる様子だったり、新しく人と人とが出会って、新しい関係が生まれるその様子を見届けるのが好きなんだなと。
「接点」を生み出す仕掛けだったり「母数」を拡大させる手段を、常に構想・検証している事に気がつきました。
TEDxKobeや神戸マルシェなどのコミュニティ活動に参加しているのは、僕自身が良いなと感じた活動を、『既存のファン以外』にも知ってもらいたい!そこにやりがいを感じ動いている事にも気づいた訳です。これまでと同じ方法を繰り返す事が退屈なんだなと。
◯よくデザイナーとアーティストを間違われます。施作を決める行政の方も、うまく説明できないと思います。便宜上、創造性をもった人を総称して「クリエイター」「クリエイティブ」と曖昧にしがちですね笑
「絵画」と「ポスター」だと、社会との接点が多いポスターに馴染みがある人が多いと思いますので、いわゆる「デザイン」を「デザイナー」へ頼もうとなるかもしれません。
では、絵画のもつ社会での役割は?
◯僕が思うに、絵は、絵画そのものに価値があるのではなく、まだ見ぬ世界を独自の方法を見つけ出し、形にするその行為にこそ価値があるのであって、作品自体は、その副産物に過ぎないという事です。
僕は、絵=いわゆるアートにこそ、次のヒントがある事を確信しています。最近よく耳にする「デザイン思考」では足りないんです。近頃、「デザイナーは無力」ですって、よく口にしていますが半分は本当にそう思っています。
唯一無二のアイデアを世に出すアーティスティックな勇気と行動力。僕自身を成長させていかなければ良い仕事はできないと思っている。
◯より多くの人に知ってもらうデザインの手段と、前例のないダイナミックな発想とを組み合わせ、錬金術、魔術的な手法を探り探り、ギャラリーとか、バーとか、本屋とか、コワーキングスペースとか、コミュニティ活動を通じて、勉強している最中です。
そして、近々、僕一人では実証しきれない、新しい活動をスタートします。「人」か「本」が好きな人、手伝ってください!
写真は3年前に開催した弊社スペースを全て活用したNIGHT MUSEUMの様子です。